ADHDな私と毒親をひたすら考察する

ADHDのチェックシートはほとんど「はい」の私の現在までの振り返りと、考えると吐き気がする母親の考察を通じて心の整理ができればと思って始めたブログ

ギリギリ入学して余裕で卒業の不思議

今回の話はADHDと全然関係無いんですが、

私が人生を通じて不思議だなあと感じていることです。

 

ギリギリ入学して余裕で卒業!?

中学時代の定期試験ではいつも平均点80点を目標にしていました。

なんせ毎回数学が30点、よくて40点代なので、平均点80点はなかなか高い目標だったのです。中学を卒業するまで、10番より前になることは結局なく10~20番あたりをうろうろしていたと思います。

そう悪く無い成績のようにも思えますが、

「勉強ができる」とか「よくわかった」という自信というのを持てたことは

一度もなく、

ただ、テストに”選択肢”があるから、なんとなく回答がわかる程度で、本当に理解しているとはとても言えない状況でした。

強いて言えば理科の「生物」だけは大好きだったので、それだけは自信があったかな。

 

高校

以前のブログでも書いた通りギリギリ入学できた高校。 

adhdnanokamo.hatenablog.com

 

入学時に周りの子に聞くと、中学時代偏差値が60ぐらいの子が多かったのに私は57とかだったと思います。

定期試験の成績もずっと悪くて、平均80どころか、平均60点が目標で、赤点(40点)を取らないように気をつけなくてはならないレベルでした。

 

しかし、大学進学の頃になると、入学当時偏差値60だと言ってた子が短大へ行き、

私がいつも尊敬していた聡明な子が大学へは進学しないと言い、

またまた中学時代と同じくスクールカースト上位の「イケてる」子たちが専門学校などに進学しました。

もちろん、賢い子は国立大や有名私立へ進学していきました。

別に学歴が全てだなんて全然思わないし、どういう進路でもいいのですが、

 

ギリギリ入った高校で勉強に対して何か努力をしたということが一つもなかった私、マークシートだからなんとかやっていけた私が、

卒業時には何故だか真ん中よりは上にいてたのが不思議だなあと感じました。

正直私が彼ら彼女らよりも成績がいい感じが全くしなかったからです。

 

 

大学でも

この現象は大学でも同じで、ギリギリ奇跡的に合格した大学だったし、

(ここ以外たくさん受けたけど全部落ち、ここは3回も試験が受けられ、理系なのに数学じゃなくて国語で受験できた)

 

大学1年の頃はみんなの間で回し読みされている「過去問」というキラーコンテンツの存在すらしらず、もちろん勉強も真面目にしなかったので、単位落としまくりで、進級すら危ぶまれる状態だったのに、

数学が苦手なのに理系に進学したおかげで実験に使う溶液の調合に使うモル計算もできず、先輩から愛想を尽かされていたのに、

 

気がつけば何故だか多くの仲間を差し置いて

憧れていた国立の大学院に進学しました。

(大学院への進学は学力とかあんまり関係ないけど)

 

大学院でも

この大学院なんて、国立だけど何故かペーパーテストがなくて(!)

「英語の足切り試験」(英語の一文が書いてあって日本語訳する。わからない単語は試験官に聞ける!)

と「面接」だけなのに、、、落ちて(汗)

でも何故か3回も試験を受けることができて、3回目にギリギリ合格。

(前の2回はどうやら足切りの英語に引っかかっていたみたい。。)

 

またもやギリギリ入学です。

しかしその大学院で新設される博士コースというのに入る試験になぜだか合格し、博士コースを狙っていた友人たちの何人かは落ちているという不思議な現象が。。。何故??

 

おかげで私は博士コースへ進んだものの、ほんとに賢い優秀な人たちばかりで、、、恐縮することばかりでした。。。

2流私立大出身の私と、国立大や1流私立大出身の人はやっぱり全然違うとまざまざと感じました。(私と同じ2流私立大出身の子も私よりはずっと優秀でした。)

 

この話どう思いますか?

自慢話と受け取られると困るのですが、

私の頭は全然ついてきてないのに、なんだか偶然が重なってやたらと進学してきたような気がするのです。

大人になった今でも勉強に対する苦手意識は強く、しかも運良く大学院まで進学しちゃったせいで周りには優秀な人が多く、(自慢という訳ではないのですが夫も賢い!)

いつも劣等感を感じています。

 

でも、環境というのは本当に大事で、優秀な人たちに囲まれることで、

言葉遣いも考え方もどんどん変わってきたと思います。

正直分不相応な学歴となってしまいましたが、こんな環境に入れたことに本当に感謝しています。

 

なんだか自分でもすごく不思議で、

人生を無理やり何かに導かれているような、そんな気がするのです。

その後も全く予定調和でない、奇跡的な人生が続きます。

 

偉そうな人が偉い訳ではなかった!衝撃だった中学1年の中間テスト

中学への進学

これまでにも書いているように、小学生時代は

私は自他共に認める「学年1のキモ女」でした。

運動神経は最低、机の中はぐちゃぐちゃのプリントとカビたパン。

宿題はほぼ毎日やってこない。汚く、横着で、忘れ物だらけで

ことあるごとに先生に怒られる・・・

その割には鼓笛隊の「指揮者」に立候補しようとするなどの、

イタさ。。。

自分でも自分が嫌でした。

自信にあふれてキラキラしているクラスメイトが眩しかったです。

 

さて、小学生を卒業しても、ほとんど同じメンバーで地元の中学に進学しました。

相変わらず「キモ女」の地位の私。

休み時間になる度に、「話をする子がいる子はいいなあ・・」と思いながら休み時間中一人でいることの寂しさと恥ずかしさをごまかす日々です。

全く友達がいないというわけではありませんでしたが、いつも休み時間には必ず喋ってくれるとも限らないし、親友というほどでもないような関係でした。

 

衝撃の中間テスト

中学ではどうやら「中間テスト」「期末テスト」というものがあり、

どうやら成績が張り出されるというではありませんか。

(「最下位」だったらどうしよう・・・)不安がよぎります。

でも、実はこの子は私より成績が悪いんじゃないかと思う子が一人いたので

(今思えば多分その子も発達障害グレーな感じだったんだと思います)

私の予想は下から2番目でした。

だからといって、試験前に勉強するという発想の無い私は試験前日も普通に寝ていたらしいですが・・・

 

さて、初めての中間試験が終わり、成績が張り出されました。

私はとにかく最下位でないことだけを祈りながら成績を見に行きました。

 

するとどういうことでしょう。正確には覚えていないのですが

学年が4クラスで40人学級だから160人ぐらいの学年で私は20番前後ぐらいの成績だったのです!

最下位を免れたどころか、前から数えたほうが早かっただなんて!!

 

嬉しい気持ちよりも、驚きの方が大きかったこの結果。

「クラスでいつも偉そうにしていた子たちは別に(勉強が)偉かった訳ではなかったんだ!」とかなりの衝撃でした。

 

しかし成績が悪くても偉そうにしているその子たちに対して多少の不満や優越感を感じたところで、スクールカーストが変わる訳ではありません。

成績とは関係の無いところで築かれる「スクールカースト」の序列にやっぱり自分が入り込む隙はなく、「最下層」の私としては、なんとか「普通」のグループに入れないかなあと考える。そんな日々でした。

 

しかしこの時素直に感じた「偉そうな人が偉い訳では無い」というのは大人になった今でも真理だな〜と思います。

会社でも、、ママ友メンバーでも、、、

中身がなくて偉そうにするのがいいというわけではないのですが、

偉そうにできる力=人望を集める力?人を支配する力?というのを持っているってのはすごいことだなあと思う今日この頃です。

 

「体育・運動が苦痛」幼少時代からの苦手が高校3年で急に克服される

私は運動が苦手でした。

これはADHDと必ずしも関連性がないそうですが、一部関連性があるという記述も目にしました。どれが本当かどうかわかりませんが

とにかく、私はどんくさくて、運動センスがありませんでした。

 

私は運動音痴

50m走で10秒を切ることはなかったし

<実は高校時代に1度だけ切ったことがありますが(笑)>

ボールが怖くて、ドッジボールやバレーなんて最悪の競技だと思っていました。

 

水泳も、5年生まで、息継ぎができなかったし、

二重跳びは毎年足を痛めるほど練習するけど、できたことはないし、

大縄跳びも怖くてすごく苦手。

 

野球でいわゆる「フライ」ボールがどこに落ちてくるのか予測するのも非常に苦手でしたし、足で操るサッカーなんてとんでもありません。

リフティングの最高記録は4回です・・・

 

そもそも、基礎能力がなく、

ジャンプ力や握力、ボール投げなどもかなりひどいものでした。

 

ポートボール?とバスケットは比較的好きなスポーツでした。

あとはあんまり運動センスのいらない「長距離走」これは人よりいい成績でした。

(学年の女子150人中5km走が12番とかだったんですよ!)

 

運動音痴の2次被害

こうひどい運動能力だと、体育の成績というより、

「ジャンケンでチーム分けした時、同じチームだと落胆される」という

子どもの心が結構傷つく2次被害がでてきます。

 

それでなくても、汚い、宿題しない、忘れ物だらけ、集団行動できないetc...私。

そこに運動音痴も加わります。

 

小学校高学年の頃のある日の下校時、

男のたちのひそひそ話が聞こえてきました。

「学年で一番キモい女子といえばMちゃんやでな」

 

残念でつらいことでしたが、今更聞かされるまでもなく、

学年で1、2を争う「キモ子・変人」であることは自分でもわかっていました。

 

 

転機が訪れる

この頃から私の「体育・運動が苦痛」人生はずっと続き、恥ずかしさを抱えながら暮らしていましたが、高校3年生の時に転機が訪れます。

 

私は人数の少ない理系クラスということで、割とクラスの結束が固く、「クラスのイケてるグループの女子」(普通ならまあ私と交わることの無い人だったのですが理系という特殊な環境でスクールカーストが緩かった)の明るくて面白いタイプの女の子が

バレーの授業の時に人生で一度もサーブが入ったことのない私に、練習したら絶対にできる」と言って、授業後に一緒に練習してくれたのです。

 

そしたらその休み時間の間にも私のサーブは入るようになりました。

私はすごく嬉しくて嬉しくて。

しかも「練習をすることで何かができるようになった」経験はこの時実感として初めての経験でした。

 

卒業間近の頃でしたが、「私もやればできるかもしれない」という微かな自信を持つことができました。

そして実際、この後「ものすごい上手」ではないものの、一通りみんなと楽しめる程度にはどんなスポーツもできるようになったのです。

 

「できるイメージ」を持つだけで劇的に変わった

高校3年のバレーのサーブができた事件以来、

私は「できないできない」と思っていることが余計にできなくしているということに気づきました。そして、体の能力というよりは「できるイメージ」を持つことで、そこそこのところまではできるんだと分かりました。

 

まずはバドミントンとキャッチボール。「できるイメージ戦略」で割とすぐ普通程度にこなせるようになりました。

バドミントンは「手のひらが伸びたと考えてやるといいよ」という当時の彼氏のアドバイスがすばらしく、割と上手になりました。

そして、毎年毎年足首を痛めるほど練習してもできなかった2重飛びだって、

大学の研究室でなぜか縄跳びブームになった時にあっさりできるようになり、

ダブルダッチ(縄2本で飛ぶ大縄跳び)だって飛べるようになりました。

 

バレーも、みんなと仲良く円陣バレーを楽しむ程度にはなりました。

空振りばっかりのバッティングも「できるイメージ戦略」でまあまあ打てるようになり(力が弱いので、全然飛びませんが・・)

おかげで「ソフトボール」なんかも楽しめるようになりました。

ボーリングやダーツなど、友達とやる機会が多いものも、普通にできるように。

 

これまで恐怖だった”運動”でしたが、社会生活を楽しむレベルにまでは、

”特訓”なんかほとんどなく”意識改革”だけでできるように変わったのです。

 

そして、

そうはいってもこれだけは絶対に無理と思っていた「サッカー」ですが、

なんと成り行きもあって、大学院時代にフットサルサークルに入ることに。

 

相変わらずドリブルやリフティングなんていっこもできない上、

足も遅いのに、サインを出してパスをもらってもスルーしたり(汗)

大抵はゴール前でボールをもらってゴールに押し込む役でしたが。。

 

それでもなぜだかとっても楽しくて、東京で就職してからもフットサルチームを探すなどして続けていました。

 

ここまで読んで気がつかれたかもしれませんが、

「運動神経最悪で学年一のキモ女」だった私ですが、

もう「リア充」と呼んでも差し支えないほど人生が好転していました。

好転の理由は他にも色々あるのですが、「運動に対する自信」もそこそこ大きい理由だと思っています。

 

もし「絶望的に運動苦手」な若い人がこれを読んでくれたなら、

「あなたもできるイメージを持つだけで変わることがあるかもしれないですよ!」と言ってあげたいです。

 

 

学校教育に苦言

さて、私が絶対にできないと思っていたバレーのサーブ。

友達がちょっとの時間を割いてマンツーマンで見てくれただけであっさりとできるようになりました。

これまでなんどとなく体育でバレーの時間はありました。

学校の体育の時間、先生は何をしているのでしょうか。

いつも先生たちは「さあやってみなさい」といって、あとは評価するだけです。

(図画工作や作文とかもそうですけど)

ちょっと、ほんのちょっと一人一人と向き合って「指導」すれば変わる子は絶対たくさんいるはずです。

評価するだけで指導しない。学校教育ってなんだろな、と思います。

まあそうじゃない先生や学校もたくさんあるとは思いますが。

 

もちろん、親もこれまで書いてきた通りの感じなんで、私の運動音痴をなんとかしようと尽力してくれるなんてこともありませんでしたけどね。

困っている子どもに手を差し伸べてあげる機会がもうちょっと多くてもいいんじゃないかなと、以前困っていた子どもの代表として、言いたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

母の病気に対する考え方がおかしいと思う

さっき、「アレルギーを持つ子の親の苦労」みたいな記事を読んでいて、だんだん自分のことを思い出して腹が立ってきたので、記事を書いてみます。

 

(このブログ、自分のことを書こうと思っていたのに、母親への不満ばかり書いている気が。。。でも今まで、どこにも吐き出せずにいたのを、とにかくいろいろ書いてみると、新しい景色が見えるんじゃないかと思うので、ま、いっか。)

 

さて、話を元に戻すと私は割とアレルギー体質で、1番ひどいのは、ピーナツアレルギーだけど、アトピー性皮膚炎ぽい感じだったり、花粉症も小学校の頃から発症してました。

 

ピーナツアレルギーが発覚したのは幼稚園のころ。好きな男の子にチョコボールをもらってウキウキで口にした直後、猛烈な気持ち悪さに襲われすぐ帰宅(家の前で遊んでいた)救急車で運ばれ、関節のあたりになにか注射をされたような記憶がある。

とはいえ、(量にもよるけど)すぐ死ぬほどの重症患者ではない。

うっかり口にしてしまうと、全身じんましんが出て、猛烈な吐き気と血圧の低下を感じ、しばらくもがき苦しんでから吐くと割とすっきりする。そんな程度です。

 

ピーナツアレルギーが発覚したのちも、私の母はピーナツに無頓着でした。

冒頭に書いた「アレルギーを持つ子の親の苦労」なんて、かけらも感じなかったと思います。

例えば、カレーの王子様だったかな?

子ども向けのレトルトカレーには微量ながらピーナツバターが使われていた(当時)ので、食べるたびにじんましんが出て気持ち悪くなるのに、「好き嫌いはいけません」とかいって、無理やり食べさせられてました。

(カレーにピーナツバターが含まれていることに気づくのは随分後。現在ではカレーの王子様にはピーナツは確か入ってなかったと思う)

今思うと好き嫌いだらけの母が「好き嫌いはいけません」だなんて、笑っちゃいますね。

 

学校給食でも度々誤食がありました。

学校の対応も今なら大問題だと思うけど、昔は雑だったし、自分で気をつけて「食べない」ようにする以外、先生が何か気をつけてくれることもなかった。元々給食の中でも結構好物だったほうれん草とちくわの和え物に、ある日突然ピーナツがトッピングされてきた時は最悪でした。。。同じく好きなメニューだった親子丼が食べられなくなりました。。。

大学生頃になると友達と旅行にいったり、研究室旅行にいったり、、、また、なにか会食をするようなことや結婚式などもいろいろでてきたけど、みんな幹事はすごく気をつけてくれて必ず旅館や、会食先にピーナツアレルギーのことを伝えてくれてました。

 

そんな折、家族でいった旅行で旅館のご飯にピーナツが混ざっていて、(もちろん事前に除去の依頼などしていない)せっかくの食事が台無しになり、人生初のあわびを食べる機会を失ってしまった。かわりに私が独自にあみだしたアレルギーをやわらげる方法、「牛乳1Lいっきのみ」になってしまった。。。

 

そう、なにがいいたいかというと、アレルギーに対してうちの家庭は非常に無頓着なのです。

ピーナツアレルギーはもちろんそうですが、

小学生の頃から極度の花粉症だった私は春には鼻水だらだら、目が痒くて痒くて死にそうだったのですが、自分から薬局で「花粉症用の目薬を買ってほしい」とお願いして買ってもらう程度で、

親からのなにかしらのアクション、病院につれていくとか薬局で相談するとか、そういうのはまるでありませんでした。

 

それだけではありません。とにかく病院にいかない、薬を飲まない家でした。

子どもの頃は「風邪だ」と言われてただ家で休んでただけだけど、今から考えるとあれは絶対インフルエンザだなと思うものも、もちろん病院にいかないし、

 

つい最近母が話してくれたのですが、

今の実家に引っ越してきてすぐのころ、弟(3歳)が40度の高熱を3日も出し続けた話でなんですが・・・

「(弟の名前)がずっと高熱を出しているのに、お父さんは会社を休んでもくれなかったから病院にいけなかった。おばあちゃん(自分の母)に相談したら、”そんなもの今すぐ病院に連れて行きなさい!(弟の名前)の頭がおかしくなってしまうで!”と言われて慌てて父の会社に電話してすぐ帰ってきてもらって病院に連れて行った」というものです。

みなさんどう思います?おかしいでしょ?

母はこの話を「父がどれだけひどい人間か」という話として私に得意げに話すのです。

自分で連れて行けよって話じゃ無いですか?

確かに車が無いと不便な場所で、母は運転できません。しかも引っ越してきたばかりです。でも、普通、調べてタクシーでいくでしょ?

 

母はそんなことがちらりとも頭に浮かばない人で、

父がいなくては一歩も外へ出れない人だったのです。

そして、自分のせいだなんてつゆほども感じず、父を非難するのです。(父が悪く無いといいたい訳ではありませんが)

 

中学生の頃には生理がはじまって、私は人よりも生理痛が重いタイプだったので、生理があるたびにベットで悶え苦しんで、握りこぶしで床を殴りながら痛みに耐えていたんですが、もちろん鎮痛剤をもらえる事はありませんでした。

しかも、「そんなことに耐えられないことでは出産はできない」と言われていました。

とにかくお腹がいたいというと、いつもこれです。

 

高校受験の時、運悪く受験と生理が重なってしまいました。

それでも母は鎮痛剤を飲ませませんでした。多分いじわるで飲ませないんじゃなくて、思いもつかなかったんだと思います。

 

お腹が痛くて痛くて、、、でもなんとか試験を続けていました。

しかも、受験シーズンは花粉シーズン。高校の前は杉林です(苦笑)

前述したように、重度の花粉症だった私はあまりに鼻水が滝のように出るので、ティッシュなんかでは追いつかず、試験監督に「タオルを出して受験してもいいか?」と尋ねたのを記憶しています。

それプラス、生理痛です。

 

昼休み、あまりの痛みに耐え切れず、保健室にいきました。

保健室の先生が「かわいそうにね」とかいいながら腰のマッサージをしてくれると、

幾分痛みが和らぎましたが、30分もすると、また痛みが戻ってきて、、、結局痛さを堪えつつなんとか試験を乗り越えました。

 

ま、合格したからよかったんですけど。

今考えると晩御飯に受験に勝つとかいってトンカツつくるんじゃなくて、薬くれよって感じでしたが、私もこんな家庭に育ったもので、薬飲むって発想がなかったんです。

 

 

私の病院に対する考え方が変わったのは大学生で初めて彼氏ができた時でした。

風邪をひいたというと「病院にいったほうがいいよ」というのです。

風邪で病院だなんて、私はびっくりしました。

 

また、私のアトピー(足首や腕など局部的なもの)があんまりひどいので、いい病院を探して連れて行ってくれたり、漢方薬がいいんじゃないかとかいって、漢方薬局に連れて行ってくれたりしました。

これ、書きながらなんて優しい彼氏だったんだろうと涙がでますね。。。

 

そのあたりから私も、何かあったら病院に行くという、

当たり前といえば当たり前の理解ができるようになりました。

生理痛を我慢せずに鎮痛剤を飲むようになったのもこの頃だったか、もう少し後だったか。今までなぜこんなにも我慢していたのか。。。。

 

たいしたこと無いことでやたらと病院にいくのもあれかとは思いますが、

我が家のようにここまで徹底して病院や薬に頼らないというのもどうかと思います。

しかも、それは病院や薬に対する信念みたいなものがあって、

あえてやっているのではなく、頭が空っぽで何も考えてないから、何かを調べる能力が無いからだと思うのです。

 

母は常々自分が学校の成績が優秀で学級委員をやっていたことなどを自慢してくるのですが、ほんとそのご自慢の優秀さは微塵も役に立っている気がしません。

そして「大学が嫌だといったら短大に行かされた」という母が行ってた学部が”家政科”です。Wikipediaによると

家政学は、家庭を守る婦人の為明治時代から発展した学問である。現代では生活科学の方面へと発展している。

 ですって。

 

もう、ほんと笑っちゃう。

家庭的なことなにもできないのに。。。

・ 子どもと遊ぶのきらい

・ 家庭の医学のかけらもわかっちゃいない

・ 料理下手、栄養バランスや献立能力無し

・ お菓子やパンなんてまるで作れない

・ 裁縫苦手

とか、あげはじめるとキリが無いからやめとく!

 

母への不満は幼い頃から常に私の頭のなかを占拠する事柄で、

結構温厚な私の唯一のダーク部分って感じだったのが、

ようやくここ数年で随分落ち着いてきたけど、

落ち着いてきた理由は、いろいろ分析していくと、

私が憎くて?私をバカにして?やってたってことよりも、

ただ単に

頭が空っぽで自分の頭で何も考えられず、全部人のせいにしていた結果だ

ということがわかってきたからだと思います。

 

いるんですよね、こういう人が。

口は達者なので、周りの人たちは母のおかしさに全然気づいてないと思いますが・・・

 

今回書いた「母の病気に対する考え方がおかしいと思う」ってものも全くもってこの理由。自分の頭でな〜んにも考えてないんですよね。

 

はあ、すっきりした。

次こそ自分のこと書こうっと。

 

なぜ母は父をけなし続けたか

父と母の出会い

過保護で世間知らずな都会のお嬢様育ちの母はヒステリックでわがまま。

田舎生まれの貧乏育ちで学歴もなくブルーカラーの父はズルくて調子のいい人。


父は田舎の貧乏な家で育ち、借金取りに追われるような生活だったそうで、親(私の祖父)はるばる大阪まで来て働いていたそうです。家族関係も希薄で、方言のために学校ではいじめられ、、なかなか大変な青春時代だったと思います。ボロいアパートに両親と隣同士で住んでいました。母はそんな父を馬鹿にしていました。(父親似の私もバカにされてましたが)
そんな父と母が出会ったのは、母が短大を出て働き始めたころ、母の父親(私の祖父)が早くに亡くなってしまい、とても心細い時期のお見合いです。
 
母の話によると、「私はいつも学級委員をやっていて賢かった。でも勉強したくないから短大に入った」「私は会社でちやほやされて、とてもモテたのに言い寄ってくる男性はみんな背の低い人ばかりで私は背の高い男性と結婚したかったがためにこんな変な人と結婚してしまった」そうです。。。いつも自画自賛がすぎるのです。

父は、背も高く、割とハンサムな方だと思うのですが、当時アフロヘアだったせいか、収入の低さのせいか、性格のせいかわかりませんが、どうやらあまりモテなかったようです。お見合いを何度かしたものの、衝撃的に変な人ばっかりだったそうで、落胆していたみたいです。
 

「実家の金」目当て VS「背の高さ」目当て

二人が結婚を決めた理由ですが、父は、きっと母の実家が裕福なところに目をつけたと思います。つまらない事に計算高くて嫌ですが、貧乏な上、学歴もない、愛情もない。そんな環境で育ったんだから仕方がないかもしれません。
車を買う、家を買う…いろんな時に母の実家にお金を頼りました。母とひどい喧嘩をすると、家に帰って来なかったり、給料を入れなかったりそんなことするような人でした。
母は母で、早くに自分の父親が亡くなったことに焦っていたとは言え、結婚の基準が「背の高さ」だったので、私から言わせてもらえば、そりゃそうだろと言う結果です。お見合いなのですから、実家のこともわかるし、学歴のこともわかるし、収入の事だってわかって、の結婚だったはずです。「油まみれの作業服を洗うんじゃなくって、白いワイシャツにアイロンをかける生活がしたかった」なんで、言う方が間違っていると思います。
ここは、私の母と母の母親(私の祖母)の間で話が食い違うのですが、私の祖母はこの結婚を止めたそうです。でも、母が「どうしても」と言うので結婚を進めることになったそうです。母は父が「結婚してくれなかったら死ぬ」と言われて結婚したというので、まあなんというか、母はウブで世間知らずだったということでしょうか。
 
貧乏と、世間知らずをとことん馬鹿にした母
いつも私の母は父の、貧乏と世間知らずさをバカにしていました。例えば、結婚後初めてのクリスマスに母が「キャンドルを買ってきて」とお願いしたところ、父が買ってきたのは”仏壇用のおかめろうそく”だったそうです(笑)大好き同士の2人であれば、こんな話は笑い話になるのですが、今でもこの話をものすごい嫌悪をしながら話します。
 
母の話を総括すると父は
「ダサい、暗い、イケてない」(→私に釣り合わない)
+「男らしくない、嘘つき」(→これは本当に母が傷ついている)
ということでした。
加えて父親の両親の冷たさ、非常識さも相当酷評します。
電子レンジを使ったことがないとか、お好み焼きを知らないとか。(田舎をバカにしてる)初孫(私)を連れて帰った時出迎えてもくれなかったとか(子どもが嫌いなんでしょう)働きに出たいから子供の面倒を見てくれといったら拒否されたから私は働けなかったんだとか(自分だって私の子どもの面倒なんてよう見ないくせに)母の批判は差別的だし、自分勝手な意見もおおいに含まれていますが、父の両親も、母の実家の財産にある程度期待をし、「田舎に戻れば立派な家がある」などの嘘をついたり「嫁入り道具の家電製品は全てナショナルじゃないと」なんてことをのたまったりしていたので、どっちもどっちという所でしょう。

 
私が初めて見た喧嘩
私の記憶にある、初めての”盛大な夫婦喧嘩”は、確か私が4歳か5歳位のクリスマスの時です。父が珍しく、気をきかせて大きなプレゼントを抱えて「おーいクリスマスプレゼントだぞー」と帰宅しました。私が、「やったー!!」と喜ぶまもなく、それを見た母はブチキレました。母の意見は「サンタさんが持ってきたことにしてほしいのにお前が持って帰ってどうする!どうしてそんなに気が利かないんだ!」という話なのですが、子供が喜んでいるのをぶち壊してまで怒り狂う話では無いと思います。母が激怒りする時の理由はいつも些細なことなのですが、その裏には父への不信感があったのかもしれません。ちなみにこの時、父と母は大変な口論になり、父は母を殴りました。それを見ていた私は、お母さんを助けなくてはと思い、重たいおもちゃを持ってきて「お母さんこれを投げたら?」と言いました。(そのフォローも、全然違いますが笑)しかし普段の父はかなり温厚なので、殴るなんてのは相当腹を立てたんだと思います。いや、私でもこれは腹たつわ。
怒った母の声はマシンガンのように早口かつヒステリックな大声で畳み掛けるように次々とののしりの言葉が出てくるのには、感心します。近所の人はどう思っていただろうと思いますが、世間体に配慮する自制心はなく、母はヒステリーを抑えられないようでした。
 
 
父の卑怯さ・母の卑怯さ

この頃からなのか、もう少し後(前)からなのか、分かりませんが、

父はこの後長きに渡る不倫をするようになりました。

父の肩を持つわけではありませんが、父がいくらろくでもない人とはいえ、こうも毎日毎日貶され罵られては、プライドが傷ついたでしょう。

不倫をしたくなる気持ちもわからなくはありません。(私が家出した気持ちと同じでしょう)しかし、離婚はしないところが父のしたたかさです。裕福な母の実家を、手放したくなかったのです。

 

こう書くと、父だけが卑怯なように思いますが、

母も非常に依存体質で自分の実家にかなり依存しつづけました。金銭的にも精神的にもです。

 

結婚直後まだ働きに出ていた頃は、晩ご飯のおかずを自分の親に作ってきてもらい、地下鉄の駅で受け取っていたと言います。子供(私)が生まれた時には、「私は眠たいんだから!お母さん見といて!」とかいう態度です。実家に入り浸っては、まだ子供のいない姉嫁に離乳食を作ってもらったり、それを当然のことのように考えていました。

 

何かあれば常に実家と相談、すぐに実家へ帰り、お金だって自分が働きに出るのではなく実家に頼めば何とかなるというスタンスなのです。

(自分が働けば父が働かなくなる、給料を入れなくなるという理由をつけていました)

何度となく「もう離婚する!!」といって実家に戻り、優しい母と兄のいる実家で甘えさせてもらっていました。(お兄さん(私の叔父)は私たち兄弟を引き取るから離婚しなさいと言いましたが、兄嫁はとんだ迷惑だったでしょう。)

 

私が母と喧嘩して(喧嘩というか・・・)おばあちゃん家にいく!みたいなことを言った時には「分かってるか、お母さんがいてのおばあちゃんや。お母さんがいなかったらあんたなんて何も構ってもらわれへん!」などといったこともありますから、

まあ母自身も「実家が切り札」「実家が心の拠り所」という意識で、しかもそれが自分の価値であると勘違いしていました。残念です。

 

「実家の金」が原因

ここまで書いて、父と母のひどい不仲は「母の実家に金」があったことに起因している気がします。

しかし皮肉なことに母の愛する息子は今縁談があって、見事な逆玉婚です。

どうするかは本人が決める事ではありますが、因果なものです。

母もこの縁談に気落ちしているようです。

 

で、結局の所、母が父を貶し続ける理由ですが

・ そもそも「上流で、頭も良く、顔やセンスもイケていて、モテる、愛されるべき存在の私」というプライドが高いというのがベースにあるのに

 

・ 自分ではなく、実家のお金が目当てで結婚したんでしょ?という悔しさ

・ 不倫により自分が都合がよく、無価値なものと思われている悔しさ

があって、ひたすら父を貶し、攻撃し続けたのです。たぶんね。

 それでも離婚しないのは父に依存しているからです。母は父がいなければ何もできないんです。

 

 

問題行動の裏側(小学生時代)

私は小学生時代は学校中の先生が「問題児」と認識するような生徒でした。

(もっとも、本人としてはそれほど大したことだと思っていないのですが・・・)

 

何故問題行動を起こすのか?

覚えているいくつかの事例をご紹介します。

机が汚い、忘れ物が多い、集団行動ができないetc ・・は日常なので、

今回は省きます。

 

・ 過去テストを全部捨てた事件

・ 小学校低学年なのに授業中に寝る

・ 窓ガラスを割った事件

・ 金魚の水槽が壊れた事件

 

 

ーーーーーー

・ 過去テストを全部捨てた事件

確か2年生ごろだった気がします。

小学校に入って、過去テストをファイルに保管する「プリント綴り」というものがありました。学年も最後の方に差し掛かると、そのプリント綴りもパンパンになってしまい、どう頑張ってもこれ以上のプリントは挟めそうにありませんでした。

 

そもそも、そのプリントは何故とってあるのか、その時の私には理解できていませんでした。

先生からも多分きちんと説明が無かったと思いますし、

復習だとか、見直しというのは私にとって最も苦手なことの一つで、新しい事、前に進む事にしか興味が無かったのです。

 

そんな私がパンパンのプリント綴りを見て思ったのは

「昔の古いやつを捨てれば、新しいプリントが挟める!」でした。

そこでゴミ箱にばさっと自分の過去テストを捨てました。

 

それをみたクラスメイトが「先生〜Mちゃんがテストをゴミ箱に捨てました〜」とチクります。

その光景はあたかも、過去の自分の成績を隠蔽したいがために捨てているように見えました。この事件は親にも連絡が行き、帰宅後も何かしら言われた気がします。

 

私はこの事件について、大人になった今でもそう悪いと思っていないので、

何故あんなに大騒ぎになったのか。不思議です。

 

 

 

・ 小学校低学年なのに授業中に寝る

小学校には毎日元気に通っていましたが、つまらない授業も沢山ありました。

例えば国語。

教科書には色んなお話が載っていて楽しいので、あっという間に最後まで読んでしまいました。授業ではその内容について当たり前のことをひたすら解説するばかりで、何も新しい事、ワクワクすることは出てきませんでした。

(理科や社会、家庭科のことだって、知らないことを知るのはとても好きでした)

 

(つまらないなーつまらないなー)と思いながら、あまりにつまらなくてついに寝てしまう、、、ということが小学校低学年でもよくありました。

低学年の頃はまだ、分からなくてついていけなさすぎて寝るとか、

中高生時代のように眠くて眠くて仕方がないので寝る

というものでもありませんでした。

 

よく、教頭先生がやってきて「Mちゃん、授業中に寝てはいけないよ」と諭してくれました。でも、私には「何故寝てはいけないか」がわかっていなかったので、常習犯になっていきました。

むしろ小さな子どもが全教科きちんと真面目に受けているほかの生徒のモチベーションは何なのか聞きたいです。

 

 

 

・ 窓ガラスを割った事件

この事件は確か3年か4年ぐらいの頃だったと思います。

掃除当番で「黒板係」だった私は、黒板消しをパタパタしに、ベランダへ出て行きました。もう一人のパタパタ係の子と一緒にパタパタしていたのですが、

ふと(このふわふわの面をガラスにポンっと投げればポンっと帰ってきて楽しいのではないか、楽しくこのパタパタ係の任務が果たせるのではないか)ということが頭をよぎりました。

ADHDの気がある私は、衝動的にその考えを行動に移しました。

思いついたことは深く考える前に、まずやってみたいのです。

そうしてエイやっと投げた黒板消しは投げ方が下手くそで、背面の硬い部分が見事にガラスにあたってガッシャーンと窓が割れました。

 

それをとなりで見ていた子は先生に報告します

「先生〜!Mちゃんが黒板消しを投げてガラスを割りました」

最悪です。自分でも何故こうなったのか分かりませんが自分が悪いのは確かです。

でも、「ワザとやったんじゃ無い・・」という言い訳はしにくい状況であったことは自分でも理解できていました。

どうみても、窓ガラスを割ろうとして、黒板消しを投げつけたようにしか見えません。

 

 

 

・ 金魚の水槽が壊れた事件

確か窓ガラス事件の直前か直後だったんではないかと思うのですが、私は金魚の水槽の水を循環させている仕組みに興味が湧いて、あれやこれやと見ていました。

その時どこかが外れたようで焦ったものの、特に変化が無かったのでま、いっかとその場を離れました。

しかし、徐々に水が外に漏れ始めました。

クラスの誰かが気づき、そして

「先生〜!さっきMちゃんが水槽のところで何かしてました〜」

となります。

 

私はもう怒られたくなくて何か必死に嘘の弁明をした気がします。

家でも学校でも日々怒られまくっていた私は、ごまかそうとして「嘘つき」弁明はよくやった気がします。多分ほとんどバレてたと思いますが。

 

 

 

嘘つきの子どもは性格か?

現在私は子どもを育てながら幼稚園児の子どもに対して

「嘘をついたり隠したりしたら怒る!ちゃんと言えば怒らないから」

といっています。

私の子どもの頃を思うと、正直にいっても怒られたので、

正直にいうメリットがないよな、と思ったので、子どもにはちゃんと正直に言うメリットを挙げたいと思ってそう言う事ににしました。

 

そんなこんなで私は嘘つきマインドが醸成されて大人になりました。

特に、非常に”正直”で”素直”な夫を見ていると

嘘をついたりごまかしたりする自分がさらに情けなく、ロクでもないものに思え、

遅ればせながら”正直”、”素直”を心に据えて暮らしていこうと思っています。

(もっとも、世間で夫のように正直で素直な人はあまり見ませんが・・)

 

さて、嘘つきは性格によるものでしょうか。環境によるものでしょうか。

私は正直、性格によるものも大きいと思います。

つまり、私は嘘つきでずるい性格の持ち主だったのです。(身近に、私と似たような嘘つきなタイプだなと思う子どもがいました)

 

でも自分を弁護するような事を書くのも嫌ですが、

子どもはある程度皆んな嘘をつくものだと思いますし、嘘は良くないというのは教育によって身につくものだと思うのです。

うまく教育してやることで、きっと矯正できる類のことでもあると思うのです。

 

 

 

今日は小学生時代の記憶に残っている事件について書いてみました。

しかし大人になって書いてみると笑い話ですが、

こんな”事件”に加えて

宿題しない、忘れ物・落し物・なくし物だらけ、汚い、集団行動できない・・・

ということでモンスター児童になっていたみたいです。

 

漢字と算数がダメな本当の理由

漢字ドリルと計算ドリルの大切さ

生活面で色々と問題児として過ごしてきた幼少時代ですが、

勉強では漢字と計算がひどくダメでした。

 

漢字と計算ができないのは

漢字ドリル、計算ドリルをコツコツやらなかったからなのは明らかですが、

 

漢字と計算ができないのではなくて、

「漢字ドリルや計算ドリルをコツコツやること」

ができなかったのだと分析しています。

 

とにかく自分でもびっくりするほど集中できないのです。

漢字ドリルや計算ドリルを開くと、

すごく簡単なことばかり並んでいる気がするのに、、、

いざやろうとすると

 

目の前がぼ〜っとしてきたり、気が散ったり、そわそわしてきたり、こんな同じことやって意味あるのか?なんて思ってみたり、だんだん面倒くさくなってきて、、、

 

次の日宿題忘れで先生に怒られる。この繰り返しです。

 

 

極端に低い数学の点数

漢字は部分的に頑張れば部分的に点数が取れますが、

算数・数学は本当に積み重ねが大切で、

基礎ができていない私は本当に点数がとれませんでした。

ちなみに大人になった今でも九九が怪しいです。

 

小学生時代、色々頑張って回答するのに、0点をとったこともありましたし

中学時代の試験では大抵30点代でした。

 

記憶はあやふやですが中学時代、

数学が30点代なのに、5教科の平均は80点だったので、他の教科はどうやらそれなりにまともだったのです。

 

 

数学の集中特訓

しかし私に算数・数学の素養が無いかというと

実はそんなことはないということが高校受験で発覚しました。

あんまりにも数学ができず、志望校にギリギリ落ちそうという感じの中学3年生の冬。

 

焦った私の親はママ友から仕入れた情報で急遽私を個人塾に入れました。

結構高齢のおじいちゃん先生のマンツーマンの指導で、1日10時間ぐらい、

ひたすら数学をやらされました。

なんとおじいちゃん先生自作の昼食付き!おじいちゃんながら、トンカツとか出てきました(笑)多分、孫みたいな感覚だったんでしょうね。

 

その先生の解説は結構わかりやすくて、

マンツーマンで他に何も気が散るものが無い環境もよく、

この集中力の無い私が1日10時間程度ひたすら計算問題を解き続けたのです。

確かそれは2週間続きました。

 

10時間×2週間 

 

これまでの人生の中で私が確かに勉強した!と実感できる2週間でした。

これまで他の教科も含めて受験勉強なんて名ばかりで、

実はどれもこれも集中できず、

教科書の後ろに隠したマンガを見てる時間、

マンガの落書きをしている時間の方が多かったのです。

 

数学の素養が無い訳ではなかった

結果、受験当日の「数学」は確実に90点は取れたな、という手応えがありました。

おかげで志望校にも見事合格。

この時私は人生で最初で最後の「数学が一番得意」な時期でした。

 

このおじいちゃん先生に感謝すると共に、

マンツーマンがいいのでは?と考えた母のナイスプレイにも感謝します。

 

 

ちなみにこの時点では、私の”集中力”に問題があったことに気づいておらず、

「先生の教え方が良かった」「私は数学が得意になった」

 

と思っていたので、

高校に入って数学の成績は急降下、結局そのまま回復せずに現在にいたります。

 

やり方次第で変わるかも

結論ですが、

数学ほど「コツコツ積み重ね」が大事な教科は無いということ

数学ができない子や

数学ができない子を持つ親御さんがこの文を目にしたなら、

「環境ややり方次第ではものすごく上手くいくかもしれない」と考えてみて欲しいです。

特に集中力の持続が難しいADHD気味の子には有効かもしれません。

 

 

蛇足

小学生時代、私と最高に相性が悪かった女の先生の算数の授業はひどいものでした。

新しい単元に移る時

「はい、今日から次の単元です。みなさんもう塾で習っていますよね?」といって公式を黒板に書いて「ではこの練習問題を解いてください」です。

もう教えることを放棄していて、塾に行ってなかった私は完全においてけぼりでした。

 

あんまりひどいこと、ざつなことをしていると、子どもは大きくなっても覚えているものです。