娘に張り合う母
毒親系の話につきものなのが、娘に張り合う母です。
もちろんうちの母もそうでした。
とてつもなくしょーーもないことで。
自分がいかに「イケてる」人種で、娘が「イケてない」人種かどうかを
色々と語ってきます。
・ 私は根アカであんたは根クラ。私は人気者であんたは嫌われ者。
・ 私はきれい好きで何をさせても優秀。あんたは汚好きでズボラで何もできない。
とかいうのは基本なので、日々言われ続けます。
でも、それは単に事実を述べているだけだと思ってました。
子どもって純粋ですからね。
胸の大きさで張り合う
でも、中学生ぐらいのときに
あれ?私に張り合っている?と初めて気づきました。
なんとまあ、あきれたことに私の胸の大きさについてでした。
常々「自分の胸は結構大きい」と自慢?していた母。
私は栄養状態がよかったのか、さらに大きかったのです。
中学生ではまだ下着も服も親に買ってもらっている頃、
ブラがどんどんキツくなっていることを訴えましたが、取り合ってもらえません。
下着売り場で測ってもらった結果だと、客観的事実を伝えると
「そんなはずない」と言うのです。
私は大きな胸が恥ずかしくて仕方がなかったので、
そんなことに張り合われてもほんと困るとおもいました。
その後しぶしぶ、大きいカップサイズのブラを買ってもらうまでの交渉が大変でした。
センスで張り合う
・ あんたのセンスはいけてない。ダサい。お母さんの方がセンスがある。
これも結構繰り返し話していました。大学生になっても、社会人になっても、言ってた気がします。
中学生の時にお小遣いをもらうようになり、
初めて近所のスーパーで友達と自分で「お気に入りの」服を買ってきた時にはかなりこき下ろされました。
幼い頃の刷り込みにより、「お母さんはイケてる人種で、私はイケてないのかも」
そうは思っていましたが、
自分が成長するにつれ、「ただ張り合ってただけなのかも?」と思うようになってきました。
「割と良いものを買ってきてボロボロになるまで着る派」の私に対して
「新しい安物を多く持って飽きたら捨てる派」の母は
・ そんなボロボロの服を着るな、お嬢さんらしくきれいな格好をしろ
とよく言いいました。
(母が私に着せたい服はIndexなどトレンドを押さえた大量生産な感じの服)
この頃母は100均が大好きで100均グッズで色々家をデコレーションしたり、
ちょこっとずつ並べられる小洒落た皿だとか、を大量に買い込んでいました。
自称「いいとこのお嬢様」の母ですが、
還暦をすぎても「良いもの」を見る目が全く育っていないので、
母的には全く問題ないのです。100均で。
私は母の反動もあるのか、こういうもの、
(安くて、大量生産で、品質は見せかけのもの、どこかのコピー品、ビンテージじゃなくてビンテージ風etc...)がどうも嫌いです。
しかし母は「センスが良い」どころか「ヤバイ」ことに気づいたのは割と最近です。
初孫ができて、色々服など買ってくれるんですけど、衝撃的なのばっかりで、
・ 義母や夫に、「何これ?!」と驚かれる
・ 友人にお古をあげようとして一緒に選んでると「何これ!?」と驚かれる
ようやく、私だけではなく、客観的に母親のセンスが変だとわかりました。「おかん」という人種は大抵「ダサい」もんですが、かなり度を超えてる気がします。
結婚して関西に戻ってきたころはお金にもあんまり困らなくなっていたし、私のセンスも磨かれてきたのか?
表立って友人や親族から「Mちゃんはセンス良いね!!」と言われることも多くなりました。
その場で一緒にそんな話を聞く母は苦々しい表情でみているだけだったりしたのですが、最近はやたらと大げさに褒めてくれることが増えました。
・ やっぱりあんたはセンスがいいわ!!
こういわれると、それはそれで吐き気がします。。
その他、料理や人格、モテ度や人気ぶり、成績など、色々張り合いポイントがありますが子どもの頃こそ、母の自慢話に「すごいなあ」と感じたものですが、
大人になってそれらが実際には「全く大したことがない」ことだと分かってくると、腹立たしさよりも憐れみの感情が出てきてしまう今日この頃。。。
そして母の張り合いは「擦り寄り、べた褒め」へと変わってきました。
表面的には「娘もやればできるんだな」という気づきですが、
深層心理としては「自分より上だというのをどうしても認めたくない」ので、
色々ねじ曲がった風に表現されてきます。
・ 人って(あのダメな子が)成長するものね
・ 私のいない所で「私の娘ってすごいでしょ?」と誰かに自慢
・ 私のいない所で「私の孫ってかわいいでしょ?良い子でしょ?」と誰かに自慢
つまり、幼少期に比べて私の周りからの評価が上がったのは
「自分の遺伝のおかげである」といいたいのです。
私関連の自慢はこっそり私のいないところで「自分の手柄」として誰かに自慢するのです。
また、私が幸せそうに暮らしているのも嬉しいようで、深層心理では腹立たしいのです。
・ 私は不運だった(夫がよくなかった)あんたはラッキーだった(夫がよかった)
というのです。
私が努力して手に入れた幸せを「ラッキー」の一言で片づけようとするのはやはり
自分の”人としての出来”が娘より良くないわけがないという表れなのです。