ADHDな私と毒親をひたすら考察する

ADHDのチェックシートはほとんど「はい」の私の現在までの振り返りと、考えると吐き気がする母親の考察を通じて心の整理ができればと思って始めたブログ

娘に張り合う母

毒親系の話につきものなのが、娘に張り合う母です。

もちろんうちの母もそうでした。

とてつもなくしょーーもないことで。

 

 

自分がいかに「イケてる」人種で、娘が「イケてない」人種かどうかを

色々と語ってきます。

 

・ 私は根アカであんたは根クラ。私は人気者であんたは嫌われ者。

・ 私はきれい好きで何をさせても優秀。あんたは汚好きでズボラで何もできない。

 

とかいうのは基本なので、日々言われ続けます。

 でも、それは単に事実を述べているだけだと思ってました。

子どもって純粋ですからね。

 

 

胸の大きさで張り合う

でも、中学生ぐらいのときに

あれ?私に張り合っている?と初めて気づきました。

なんとまあ、あきれたことに私の胸の大きさについてでした。

 

常々「自分の胸は結構大きい」と自慢?していた母。

私は栄養状態がよかったのか、さらに大きかったのです。

 

中学生ではまだ下着も服も親に買ってもらっている頃、

ブラがどんどんキツくなっていることを訴えましたが、取り合ってもらえません。

下着売り場で測ってもらった結果だと、客観的事実を伝えると

「そんなはずない」と言うのです。

 

私は大きな胸が恥ずかしくて仕方がなかったので、

そんなことに張り合われてもほんと困るとおもいました。

 その後しぶしぶ、大きいカップサイズのブラを買ってもらうまでの交渉が大変でした。

 

 

センスで張り合う

・ あんたのセンスはいけてない。ダサい。お母さんの方がセンスがある。

 これも結構繰り返し話していました。大学生になっても、社会人になっても、言ってた気がします。

 

中学生の時にお小遣いをもらうようになり、

初めて近所のスーパーで友達と自分で「お気に入りの」服を買ってきた時にはかなりこき下ろされました。

 

幼い頃の刷り込みにより、「お母さんはイケてる人種で、私はイケてないのかも」

そうは思っていましたが、

自分が成長するにつれ、「ただ張り合ってただけなのかも?」と思うようになってきました。

 

割と良いものを買ってきてボロボロになるまで着る派」の私に対して

新しい安物を多く持って飽きたら捨てる派」の母は

・ そんなボロボロの服を着るな、お嬢さんらしくきれいな格好をしろ

とよく言いいました。

(母が私に着せたい服はIndexなどトレンドを押さえた大量生産な感じの服)

 

この頃母は100均が大好きで100均グッズで色々家をデコレーションしたり、

ちょこっとずつ並べられる小洒落た皿だとか、を大量に買い込んでいました。

自称「いいとこのお嬢様」の母ですが、

還暦をすぎても「良いもの」を見る目が全く育っていないので、

母的には全く問題ないのです。100均で。

 

私は母の反動もあるのか、こういうもの、

(安くて、大量生産で、品質は見せかけのもの、どこかのコピー品、ビンテージじゃなくてビンテージ風etc...)がどうも嫌いです。

 

 

しかし母は「センスが良い」どころか「ヤバイ」ことに気づいたのは割と最近です。

初孫ができて、色々服など買ってくれるんですけど、衝撃的なのばっかりで、

・ 義母や夫に、「何これ?!」と驚かれる

・ 友人にお古をあげようとして一緒に選んでると「何これ!?」と驚かれる

ようやく、私だけではなく、客観的に母親のセンスが変だとわかりました。「おかん」という人種は大抵「ダサい」もんですが、かなり度を超えてる気がします。

 

結婚して関西に戻ってきたころはお金にもあんまり困らなくなっていたし、私のセンスも磨かれてきたのか?

表立って友人や親族から「Mちゃんはセンス良いね!!」と言われることも多くなりました。

その場で一緒にそんな話を聞く母は苦々しい表情でみているだけだったりしたのですが、最近はやたらと大げさに褒めてくれることが増えました。

・ やっぱりあんたはセンスがいいわ!!

 

こういわれると、それはそれで吐き気がします。。

 

 

その他、料理や人格、モテ度や人気ぶり、成績など、色々張り合いポイントがありますが子どもの頃こそ、母の自慢話に「すごいなあ」と感じたものですが、

大人になってそれらが実際には「全く大したことがない」ことだと分かってくると、腹立たしさよりも憐れみの感情が出てきてしまう今日この頃。。。

 

そして母の張り合いは「擦り寄り、べた褒め」へと変わってきました。

 

表面的には「娘もやればできるんだな」という気づきですが、

深層心理としては「自分より上だというのをどうしても認めたくない」ので、

色々ねじ曲がった風に表現されてきます。

 

 

・ 人って(あのダメな子が)成長するものね

・ 私のいない所で「私の娘ってすごいでしょ?」と誰かに自慢

・ 私のいない所で「私の孫ってかわいいでしょ?良い子でしょ?」と誰かに自慢

 

 

つまり、幼少期に比べて私の周りからの評価が上がったのは

自分の遺伝のおかげである」といいたいのです。

私関連の自慢はこっそり私のいないところで「自分の手柄」として誰かに自慢するのです。

 

また、私が幸せそうに暮らしているのも嬉しいようで、深層心理では腹立たしいのです。

 

・ 私は不運だった(夫がよくなかった)あんたはラッキーだった(夫がよかった)

 

というのです。

私が努力して手に入れた幸せを「ラッキー」の一言で片づけようとするのはやはり

自分の”人としての出来”が娘より良くないわけがないという表れなのです。

 

 

 

行き過ぎたポジティブシンキング

私は、子供のころからとてもポジティブとゆうか、楽観主義なところがありました。

思いついたことは何でもできるような気がしたのです。

加えて厄介なことに、私は意識高い系の子供でした。

 

例えば小学生の時、(何年生だったか忘れましたが)

将来なりたいものという欄に「総理大臣」と書いていました。

いや、違います。

漢字が苦手で間違えていたので、「そうり大人」と書いていました。

非常にこっぱずかしい子です。

 

 

カラオケ大会

小学2年生の時だったと思います。

学校でカラオケ大会が開かれるという話がありました。

クラスではカラオケ大会に参加したい人が募集され、私は意気揚々と立候補しました。

 

歌が得意だとかそういうことは全くなかったのですが、

自分の父がカラオケの先生をしていることを大変誇りに思っていたので、私もやればできるはずと思いました。

また、父が練習をしてくれるはずだとも思いました。

 

しかし、実際は違いました。

何の歌を歌いたいかもわからないし父が練習をつけてくれることもありませんでした。

どうしていいかわからないまま、本番の日が来てしまいました。(本番がいつかもわかっていませんでした)

高学年のお姉さんたちがグループを組んだりして、アイドルの歌なんかを色々歌いました。もちろんバックには華やかなBGM付きです。

 

私は、BGMを自分で用意するもんだということも知りませんでした。

おまけに、全然練習もせず本番になってしまいました。

 

BGMもなく、アカペラ。

しかも歌った曲は音楽の授業で習った「思い出のアルバム」です。

🎶「い〜つのこと〜でしょ〜思い出してご〜らん〜あんなこと〜こんなこと〜あったでしょう」

 

途中で歌詞を忘れてごまかして舞台を降りました。

 

自分でもなぜこんなことになってしまったのか、わかりませんでした。

とにかく恥ずかしさだけが残りました。

 

自分ができなかったことを棚に置いて言うのもなんですが、

言っても小学2年生です。周りの大人はもう少し助けてくれてもよかったんじゃ無いかと思います。

親にもカラオケ大会の話はしたし、クラスでもたった一人立候補した私に、「準備できてる?」とか「BGMはあるの?」とか、先生も声をかけてくれてもよかったんじゃ無いか。

私はなかなか変な子でしたが、サポートしてくれる大人というのには全く恵まれませんでした。

 

 

憧れの鼓笛隊・指揮者

5年生か?6年生?の運動会では憧れの鼓笛隊の演奏があります。

ピアニカに小太鼓、トランペットにベルリラ・・・色んな役割がありますが、なんといっても一番なりたかったのは指揮者です。

学年全員あつまって、まずは指揮者を決めます。

希望者はまず挙手をし、その後じゃんけんだったか、先生の推薦だったか?話し合いだったか?で決まるものでした。

 

もちろん私も意気揚々と挙手しますが、なんと、私の名前は呼ばれませんでした。

先生(私と相性の悪かった女の先生)が挙手した私を無視したのです。

別の先生が「Mちゃんもあげてますよ?」と小声で耳打ちしましたが恐ろしい形相で首を横に振っていたのが見え、私は諦めました。

まあ確かに私がやってもろくなことにはならなかったでんでしょう。

でもチャンスももらえないだなんて・・・

 

その後、指揮者以外の役割が決められて行きました。

次の希望だったのは確かベルリラでしたが、じゃんけんで負けて、小太鼓もじゃんけんで負けて、フラッグは審査に落ちて、結局「ポンポン」になりました。

ポンポンは私にとっては最悪でした。

ちっとも上級生風じゃないし、楽器ですらない。

ピアニカとポンポンは人数が多かったのですが、まだピアニカの方がましでした。

 

 

学級委員

中学生になってからは学級委員に立候補したこともあります。

でも、先生から親に連絡があって、「Mちゃんにはちょっと難しいのでは」と言われて立候補をとりさげることになったこともあります。

 

 

こうして書いてみると、とにかく私は自分のことも全然できていないのに、やたらと人の上に立ちたがることが分かります。

 

人の上に立ちたがる人は自分に自身がないとか、承認欲求が満たされていないからだとか、色んなことがいわれますが、なんとなくちょっと違う気がしていて、

「世の中をよくしたい」

とかなり小さい頃から思っていたのです。

 

自分ができるかどうかはさておき、

「理想的な世界」のイメージがあって、それを実現したいと思っていたので、

「神様になりたい」なんて思っていたこともありました。

 

もちろん、単に目立ちたがり、でしゃばり、承認欲求が強い

というのもかなりあると思います。

 

 

とにかく私は

自分に出来もしないことを、まるで出来もしないなんて思わずに手を出しては

恥ずかしい思いをいっぱいしてきました。

そして今でも「自分ができると思っていること」と「自分ができること」にかなり乖離があると思うので、困っています。

 

こういう人のことを一言でいうと「イタイ人」です。

長らく「イタイ人」と他人から思われてきたと思うし、自己イメージも「イタイ人」でしたが、最近では”イタくてもいいや”なんて思うようになってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

宿題ができない

私は本当に宿題をちっともやっていきませんでした。

 

毎日いくつかの宿題を出されますが、きちんとやるものもありますが、

「計算ドリル」「漢字ドリル」はできない率がかなり高かったです。

 

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毎日恥ずかしい思いをした

毎日毎日、先生に叱られたり、黒板に名前を書かれたりして

恥ずかしい思いをして反省するのに、帰るとどうもできないのです。

 

 

毎日怒られるので、毎日恥ずかしいのですが、特に恥ずかしかった日があります。

 

ある日、黒板の端に書かれた「宿題忘れ」の名前が多すぎて

黒板の面積を圧迫するというので、紙に1枚まとめて記入されて、

磁石でポンと貼られた時には、私もついにここまで来たかという感じで、

とても悲しくなりました。

 

 

実は、宿題をやってこないのは私だけではなくて、

もう1人、T君と言う男の子が私と同じくらいの頻度で宿題を忘れてきました。

 

仲間がいたので少し安心しているところがありましたが、それは男の子なのです。

 

女の子の中で、こんなにがさつで宿題をやってこない子は学年を見渡しても私しかいなかったので自分でも情けなかったし、周りの目も気になりました。

 

 

 

同じことを繰り返すような単調な作業は特に苦手でした。

この単調な作業が何かの役に立つ気がしなかったというのも気が散る原因でした。

 

あたまがぼーっとしてきてつい他のことに気が散ってしまって、結果できないのです。

「計算ドリル」「漢字ドリル」も苦手でしたが、

それよりもさらにさらに嫌で嫌で仕方がない課題がありました。

 

それは「書写」です。

 

 

 

特に悲惨な書写

書写、というのは習字のことではなくて、

国語などの教科書を、ただひたすらノートに書き写すというものです。

 

気が散りがちな私は、

今でも「書き写す」ということが非常に苦手で、

とにかくよく間違えたのです。

嫌で嫌で仕方がないから、一生懸命がんばって精神統一をして、書いて書いて書きまくる。

 

すると、1行飛ばしていたり、同じ行書いていたり、

そんなことを、次のページに移ったぐらいに気づくのです。

 

そうなると大変です。

まるまる1ページ分消しゴムで消すことになるのです。

せっかくこんなに頑張って書いたのに、、、。

 

半ばやけくそになってガンガン消していると、ノートがビリっと破れるのです。

そんなことを繰り返しているので、いつまでたっても終わらない。

 

しかも、一体何のためにこんなことをやっているのか、

何かの役に立つ、という気もしなかったのでさらにやる気を失って、あんまり終わらなくて涙が出そうになったこともありました。

 

 

 

 

好きな宿題

ちなみに、好きな宿題もありました。

理科や社会、その他調べたりまとめたりする宿題です。

毎日、好きな宿題から手を付けで嫌なものは後回しにして

結局できず夜が来るのです。

 

 

母は怒らない

あまりに毎日毎日宿題ができないので、先生から親にも注意があります。

しかし、私の母はあくまで子供の問題と思っていたのか?

口うるさく宿題をしなさいと言うこともなく、

ちゃんとやってるかどうかを確認する

などと言うこともありませんでした。

 

おかげで、私は帰ってから好きなことをして過ごすことができました。

それも、1つの方法かもしれません。

 

でも私が親だったら、なぜ宿題ができないのか、

我が子はどういったことが苦手で、何が原因となって、できないのか、

どうやったらできるようになるのかなど、子供と一緒に考えたと思います。

 

 

 

自尊心の低下

私は「宿題なんてやらなくてもいーぜ!!」と思って

やっていなかったのではなくて、

「今日こそやっていかなくては」と毎日思いながら結局挫折して、

毎朝、恥ずかしい思いをしていたのです。

自分でも困っていたのです。

 

しかしそれは多分”普通”の人には分かってもらえません。

ただのやる気が無いだけだと思われるでしょうから。

 

「ずぼら、横着、集中力がない、やる気が無い、」ということは

親や先生、周りのいろんな人から散々言われてきたので

自分でも、自分のことが

ズボラでロクでも無い人間だと信じていました。

 

 

真冬の悲しいできごと・・・

学年が上がってどんな先生になっても、宿題忘れは治りませんでした。

高学年の頃、特に私と相性の悪い女の先生が担任だったとき、

それはたしか真冬のことでしたが、

その先生はあまりに私が宿題をしてこないので、腹を立てて

冬の朝、1時間目が体育だった時、

みんなは体操服で寒い寒いといいながら体育をしていたのですが、

私はグランドに這いつくばって漢字ドリルか何かの宿題をさせられていました。

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私も半袖半ズボンの体操服です。

寒くて寒くて、そしてみんながキャッキャと体育をしているのを見ながら悲しくなって、涙がこぼれました。

しかし、自業自得だと思っていました。

 

 

 

他にも宿題をしてこない子は「修学旅行のお小遣い無し?」

だったかなんだかを言い渡された時はクラスでも話題になったようで、

誰か他のお母さんがうちの母に

「それはおかしいから抗議したほうがいい」と言ってくれたようで、それは免れたようでした。

 

その先生は今考えればやりすぎだと思いますが、

その当時は自業自得だと思っていました。

 

 

罰を重くしても変わらない

私は小学生時代、あらゆる罰を受けた気がします。

それらによって十分に心が傷つき、恥ずかしい思いをしました。

しかしどんな罰があっても、私の宿題忘れ(その他の問題行動)は治らなかったので、

こんなタイプのお子さんに頭を悩ませている先生や親御さんがいたら言ってあげたいです。

「どんなに罰を重くしても問題は解決しませんよ」と。

 

 

やっぱり根本原因をさぐり、具体的な対策を立てるのが一番だと思います。

実際大人になってからは自分の性格を理解し、ヘマをしないように、色々対策を練ることで、ずいぶん社会性が身につきました。

 

 

話はそれますが、

「犯罪者に対する罰」にしても、刑を厳罰化したところで、あんまり意味がないと思っています。

 

 

集団行動苦手

自分では、集団行動が苦手なんて1度も思ったことがないのですが、

通知表にはいつもそう書かれていました。

 

小学校入学に合わせて私の両親が新築一戸建てを購入した場所は

住宅街であるものの小学校からとても遠く(2.5km位)、

住宅街や田んぼや池の端を通り抜け、坂道につぐ坂道を経てようやく小学校です。

 

ピカピカの1年生となった私は

大きなお兄さんお姉さんたちや同級生達と一緒に

この長い長い道を毎日通学しました。

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登校

朝集合時間に遅れそうだと、走って家を出た私は、ランドセルを背負っていないことに気づいていないなんて事は日常茶飯事でした。

母が慌てて届けに来てくれたり、いろんな忘れ物上級生が走って取りに行ってくれたり、いろんな人に迷惑をかけながらそのことに気づいていませんでした。

本当に周りの皆さんに感謝します。

 

さて、登校時は集団登校ですが、

列からだんだんだんだん遅れて、後ろのほうになります。

あまりに列から離れると上級生が手をつないだりしてくれたりして、列を追いかけて走ったような記憶があります。

足が遅いということに加えてとにかく気が散りがちで道草が多いのです。

通学路が長すぎて、気が散る要因がたくさんあるのも良くなかったです。

 

サツキやつばきの蜜を吸ったり、

夏にすかんぽをかじったり、

笹の葉の船をつくったり。

 

みんなもそんなことをしていた気がしますが、私だけが遅れていたんでしょうね。

それでも、朝はみんなが連れて行ってくれたので授業に遅れる事はありませんでした。

 

すかんぽが美味しいことを誰かに教えてもらってから、

いろんな葉っぱを食べれるのか?などかじって試しすぎて、

「葉っぱを食べる変な子」的なレッテルを貼られてしまって恥ずかしかったことをうっすら覚えています。

 

 

下校

下校は集団下校ではないのでやりたい放題です。

集団下校ではありませんが、友達たちと連れ立って学校を出ます。

しかし家の近い子から1人また1人といなくなっていきます。

途中でみんなで公園で遊んだりして、

さらに1人また1人といなくなってかなり人数が減ってきたところで、

田んぼと畑があります。

 

あまりよく覚えてはいないのですが、私は高確率でそこにトラップされていました。

お花を摘んで冠を作ったりしていたのです。

 

あまりに帰ってこないので、母はよく学校に電話をかけたそうです。

興味があるものにすぐふらふらっとトラップされてしまうのは

大人になった今でもあんまり変わっていません。

 

集中力があるんだかないんだか、

つい気がそれがちで、いろんなことに気づいたり思いついたりするたびに横道にそれてしまいます。

しかし例えばお花の冠を作りだしたら土曜日のお昼の下校で、お腹がすいているだろうに、そんなことも関係なく、友達たちが全員帰っても関係なく、集中してもくもくと作ってしまうのです。

 

 

長距離下校の弊害

今思っても最悪だと思う記憶があります。

真夏の炎天下1時間以上かけて下校するのに水筒を持つのが許されていなかったので、

喉が乾いて死にそうになります。

そこで、タオルをた〜っぷり水にぬらして、それをちゅうちゅう吸いながら下校するのです。(汚い!)

それでも足りず、

田んぼの用水路とおぼしき側溝の水を手ですくって飲んでいたのです。

誰かが「ここの水は綺麗だから飲める」と言い出したのを真に受けたのですが、

よくお腹を壊さなかったものです。大人になってから考えると「おえー」です。

 

雨の日にはそこの水を長靴にすくって足を入れ、

びちゃびちゃの感触を楽しみながら帰ってきたりしました。

 

 

 

トイレ問題

もう一つ長い通学路のせいで困ったのはトイレです。

途中で催すことも6年間の内、何度となくありました。

通学路の途中にコンビニなんてありません。

 

友達の家でさせてもらったこともありますし、

原っぱに隠れて用を足したこともあります。

 

下痢気味のお腹に爆弾をかかえながらの下校。

おならのつもりで微妙に漏れてしまったことが何度かあった気がします。

何度か私は自宅の裏の竹やぶにパンツを埋めたことがあります。

恥ずかしかったし、猛烈に怒られると分かっていたからです。

 

親からすればそんなのバレバレだったかもしれません。

冬はパンツを2枚とか履いていたからそれで一枚脱ぐことができたんでしょうか。

記憶はあやふやですが、そんなことがありました。

 

これは私の性格の問題、恥ずかしい過去、と思いながら封印してきた思い出ですが、

よく考えれば小学校の6年間も途中にトイレのない2.5kmの道を通っていたら下痢の日もあるだろうし、気の毒だったなと思います。

 

ということで、昔の私、ドンマイ!

 

 

 

 

 

近所に響き渡る母の怒鳴り声

専業主婦である私の母は、日々よく怒っていました。
とても早口で、近所に響き渡る大声で。
毎日毎日、1日たりとも怒鳴り声を上げない日はありませんでした。


母は、結婚こそが人生最大の失敗で、結婚で人生を狂わされたと思っているので、結婚する前は、こんなに怒鳴ったりしなかったのかもしれません。


子供たちに言うことをきかす手段は、基本的に脅しです。

「そんな事したら、バシバシにいくで!」
これが口癖でした。

本人は、(今から考えると)そんなにきついつもりはなかったのかもしれません。


確かに「バシバシにいくで!」と言われた回数よりも本当に叩かれた回数の方が、ずっと少なかったと思います。
それでも"バシバシ"はとっても怖くて、私はいつも怯えていました。


母にぎゅっと抱きしめられたと言うような記憶はありませんし、お膝の上で絵本を読んでもらったと言うような記憶もありません。

おそらく、あまり子供が好きと言うわけではなかったんだと思います。
(本人は「子どもが可愛くない人なんていない」と否定しますが。)

いっしょに遊んでもらった記憶は、本当に数えられる程しかなく、いつも掃除や家事で忙しそうにしては、おこっていました。


私が小学生になる頃、新築の一戸建てに引っ越しましたが、やはり毎日最低でも1度は、怒鳴り声を上げていました。

私は、高校生ぐらいから家を出る大学院生の初めぐらいまで密かにカウントをしていましたが、怒鳴り声を1度もあげない日はありませんでした。

小さい頃にはただただ怯えるだけでしたが、私も大きくなってくると、

「どうしてこの程度のことでそこまで大声を張り上げなければいけないのか?」

と、母親への反感を募らせていました。

時には
「怒鳴り声を1日でもあげない日は無いよね」
なんて軽い口調で指摘してみたりしたのですが、全く響いていないようでした。


さて、母はどんなことに怒っていたのでしょうか? 

8割程度は、家を汚されたことへの不満です。
スリッパを履かずに床に足をついてしまった。
つけものをテーブルの上に落としてしまったのが見つかった。
箸を落とした。
などです。
でもこの程度なら、ちょっと大声を張り上げる程度で済みます。

お茶や、味噌汁など汁物をこぼした時には、かなり怒り狂い、叩かれます。
「叩く手が痛い!」と言って布団叩きで叩かれたこともあります。

さて私は学校で問題児だったので、宿題を完璧にやっていた日はほとんどありません。
毎日、先生に怒られましたが、そのことを母に怒られた事はありません。

勉強しなさいと言われたことも、ほとんどありません。高校生になって、髪の毛を染めたいと言った時も一緒に染めてくれました。

子ども自身のことにはそれほど興味が無かったんだと思います。



完全に覚えているわけではありませんが、
どなり声の残りの2割は夫婦喧嘩だったと思います。

ということで、このブログに書いてみて、初めて気付いたのですが、母のあんなにこわかった毎日毎日の怒鳴り声は、ほとんどが潔癖症に起因するものだったのです。

潔癖関連以外の怒りはもっと普通の怒り方だったと思います。
いや、そんな事無かったようにも思いますが、、、実家にいた頃は、もっとよく覚えていたと思いますが、嫌な事はとにかく忘れたかったので、あんまり詳細には思い出せません。

このブログで、全て吐き出したいと思っているのに残念です。




好奇心旺盛な姉と、正反対の弟

好奇心旺盛な私

これも母から聞いた話で、自分では記憶がないのですが、

「なぜ?どうして?」あらゆることを聞きまくる子どもだったそうです。

確かにこの話に納得感はあります。

 

本をまったく読まない我が家で、多分幼稚園の年長さんの頃ぐらいかなあ。

珍しく本屋に連れて行ってもらった時、

(お誕生日だったりしたのかどうかも覚えていませんが)「好きな本を買っていい」と言われ、「地球の本」という分厚い図鑑を買ってもらってかなり長く愛読していました。

 

 

かなり長くというのは、実家にいた大学時代にもまだ見返すようなレベルで、本当に大切な一冊でした。

内容は大人になった今読んでも面白い、地球の構造だとか、恐竜の化石だとか、そんな話です。まあ、そういうタイプの子でした。

 

「この世のことをすべて知れたらいいのにな」よくそう思いながら、宇宙のことなどを想像したりしていました。

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人間は何のために生きているの? 

そして強烈に記憶していることが一つあって、

幼稚園時代に父に「人間は何のために生きてるの?」と聞いたのです。

すると父が「人様のお役に立つためや〜」みたいなことを言ったので、

 

「そういうことじゃないねん!!」(こりゃダメだ)

 

と思ったことがあります。

私としてはそういう観念的な話ではなくて、

もっとサイエンティフィックで核心的な話が聞きたかったのです。

 

ちなみにこの「人間は何のために生きているの?」という問いは

その後も私の中でかなり重要な問いであり続け、

毎日死にたいと思った中高生時代も頭の中で考え続け、

哲学的な?回答を高校3年の時に発見します。まあこの話はまたいつか。

 

さらには私が大学、大学院と「生命科学」を学びたいと思ったのも、

「人間は何のために生きているの?生きているとはどういうことか?」

をサイエンティフィックに知りたいと感じたからです。

 

 

正反対の弟

さて、私には3つ下の弟がいます。

母の話によると、

小さい頃の弟は「なぜ?」なんてことを聞くことはほとんどなく、

話すのも遅く(立つのも遅かったらしい)、あんまり利口そうではなかったそうです。

おまけに顔もサルのようで、全然かわいくなかったとか。

 

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 しかし、

彼はイケメンに成長し、現在有名大学を卒業し、有名企業に就職して、、充実した人生をおくています。いわゆるリア充ってやつです。

線路ハズレまくりの姉とは大違い。。。

 

 

まあ、無難な人生を歩んでいるだけとも言えますが、

彼の凄いところは人を惹きつける魅力です。

 

幼稚園時代から

「Kくんは凄い!先生もお友達もみんな大好きです!」

「クラスの中心的存在です!」

などと、

先生たちからどんなに学年が上がっても会社に入ってまで絶賛され続けました。

(近所のおばさまがたからも、そして親戚や母親からも)

 

男女問わず友人の数も常に多かったし、友人をこき使って?

宿題などをこなしているようでした(苦笑)

 

 

 

それから、かなり「モテ」ました。

いや、今も現在進行形で「モテ」ます。

 

バレンタインの日なんか、

大人になってもいつも大きな紙袋に山盛りで、

そのおこぼれを私もいただいていたりしましたが(くれた人、ごめんね)

 

最近だと、

東京転勤が決まった時の「心のこもったお手紙」「プレゼント」の数がすごかったそうです。(私は同居していなかったので、母の話)

 

お前は福山雅治か!という感じですが、

「もう会社に来る気が起きない」「私はいつまでも待っている」的な、切実なお手紙をいくつももらってきたそうで、しかも!

彼はそれについてどうとも思っていないので、

母が「読んでいいか?」と聞くと「別にえーよ」というレベルなのです。

 

 

男子からも、女子からも、先輩からも、後輩からもとにかく慕われる弟。

先生からも、親からも嫌われ、友達も少ない変人の姉。

 

こんな素晴らしい弟と比較される私は気の毒ですが、

こんな変人の姉を持つ弟も嫌だったと思います。

 

しかし振り返ってみると、

学年の憧れの的である弟が「こんな姉ちゃんが恥ずかしい」とか文句を言うことは

あんまり聞いたことがなかったので(小さい頃は多少あったかもしれませんが)、人間的にできているなあと、感心します。

 

弟よりは母親の方がいかに私がロクでもないか、ということをしきりと言っていたと思います。

 

ADHD娘と潔癖性母

「汚な好き」と呼ばれ続けた私

 

子どもの頃からかなり大きくなるまで

私は「汚な好き」と母から呼ばれていました。

 

 

確かに、酷く汚かったです。

(汚いのが好きというわけではないのですが・・)

上も下もなく、カバンも部屋もグチャグチャ。

 

 

小学生になってから

学校の机の中には大抵腐って緑色になった食べかけのパン

(給食のパンが嫌いでこっそり残したもの)が2〜3個入っていました。

 

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(画像はよそのブログからお借りしましたがこんな感じに、綺麗に全体が真緑になります)

 

 

最悪なのは

掃除の時間に机を運ぶ時、誰かが蹴つまずいたりして

”ザザーッ”と机の中のものがみんな出てしまった時です。

 

「うわっっ!!汚ったね〜〜!!」なんて男子に言われたら、さすがの私も赤面です。

恥ずかしさのあまり、穴があったらはいりたい・・・。

 

そんな最低最悪な経験を経ても、

「腐ったパン」や「ぐっちゃグチャのプリント」は机の中から消えませんでした。

 

 

自分でも

”恥ずかしいならちゃんとやれよ”

と思うのですが、ダメだということがわかっても、

具体的にじゃあどうすればそれがなくなるかというのが分からなかった気がします。

 

 

こういう子、男の子にはたまにいるんですけど、残念なことに私は女子。。。

ゲテモノ扱いされるのも当然な気がします。

 

 

しかし、最近 ”汚部屋女子” も増えていると聞きます。

でも、少なくとも小中高の間、

机やカバンが私より汚い”女子”は見たことがありません。 なぜ??

 

 

 

潔癖性母

さて、一方の母は潔癖性。

記憶のある幼稚園位の頃から、母のイメージは「拭き掃除」です。

毎日毎日、掃除掃除掃除です。

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子ども達が帰ってくると、必ず足を洗わされました。

まあ確かに、幼稚園の頃なんてドロドロでしたからね。服も着替えていた気がします。

でも、大学生ぐらいになっても「帰ってきたら足洗い」でした。

 

そんな母が家の前でみんなと「泥遊び、泥&砂おままごと」を許可してくれていたのは凄いことだなあと今になって感心しますが、

 

最悪なのが途中で「トイレ」に行きたくなってしまった時。

手足をピカピカにして、洋服も着替えないと中に入れないので、

途中で家に入ってまた出てくることは許されません。

 

私が「まだ遊びたいけどトイレさせてくれ」と懇願して、

「お友達の家で借りなさい」と言われた時の驚きは今でも覚えています。

 

子どもの頃その対応は異常だと思いましたが、大人になってもそれはやっぱり異常だと思います。

 

また、大人になってから、子どもの頃の写真を見て気づいたのですが、

母は何でもかんでも

「埃がつくから」

という理由で、あらゆるものに”スーパーの袋”をかぶせていました。

 

というわけで、その写真にはあちこちにスーパーの袋が写っていて、

パッと見はゴミ屋敷のようなんです。。

潔癖性が高じるとゴミ屋敷になるとは。

 

というわけで

過度に汚い娘と過度に潔癖性の母がうまくいかないのなんて、

まあ目に見えていると思うんですが、詳しいお話はぼちぼちと。